最終更新: 2026年9月28日時点の情報です。
光岡自動車の原点は、1968年に富山の馬小屋を改装して始めた鈑金塗装修理です。中古車販売を全国へ広げながら小さな車の開発に挑み、1996年にはゼロワンで日本10番目の乗用車メーカーになりました。ビュートのような架装車と、ゼロワンやオロチのような自社開発車は、どうして同じ会社から生まれたのでしょうか。代表車と事業の変化を年代順に追います。

光岡自動車はどのように自動車メーカーになったのか?
| 年 | 出来事 | 歴史上の意味 |
|---|---|---|
| 1968年 | 光岡進氏が鈑金塗装修理業を創業 | 車を直す技術と顧客との接点が出発点 |
| 1979年 | 株式会社光岡自動車を設立 | 中古車販売の全国展開を支える会社へ |
| 1981〜1982年 | 開発部を設け、BUBU50シリーズを発表 | 自社商品を作る側へ進出 |
| 1987〜1989年 | BUBU CLASSIC SSK、BUBU 356 SPEEDSTAR | 歴史的な車の造形を現代の車へ移す手法を磨く |
| 1993年 | ビュート発表 | 量産車の実用性と独自の外観を両立 |
| 1996年 | ゼロワンが型式認証を取得 | 日本10番目の乗用車メーカーに |
| 2001〜2006年 | オロチを公開、市販化 | 独自の車体を安全・環境基準に適合させ商品化 |
| 2010〜2011年 | ライク、ライクT3 | 電気自動車と業務用超小型モビリティへ挑戦 |
| 2020年以降 | バディ、ビュート ストーリー、M55 | SUVや新しい世代のベース車に表現の場を広げる |
ここでいう「日本10番目の乗用車メーカー」になったのは、1996年のことです。光岡はそれ以前からBUBUやビュートを販売していましたが、ビュートは他社の量産車を基にした改造車でした。ゼロワンでは車体の骨格であるシャシーを自社で作り、国から型式認証を取得します。鈑金修理から中古車販売、自社商品の開発へと進み、ゼロワンで自社設計の乗用車を製造するメーカーになった、という順序です。
1968年の馬小屋から、なぜ車の開発へ進んだのか?
1968年2月、光岡進氏は富山市郊外の馬小屋を借り、鈑金塗装修理を始めました。1970年にはホンダ車の販売と中古車販売に進み、1979年11月に株式会社光岡自動車を設立します。1981年には東京支社を開き、同年12月に富山市婦中町に開発部を置きました。
この順序が重要です。いきなり完成車メーカーを目指したのではなく、修理、販売、拠点づくりを通じて車と顧客に接する事業を築き、その上で自社商品の開発を始めました。のちに独特な車を全国で売り、整備を受け付けるためにも、販売事業の経験が土台になります。
BUBUは何を変えたのか?
1982年発表のBUBU50シリーズは、光岡が自分たちの発想を商品にした初期の成果です。始まりは車いすのまま乗り降りできる1人乗りのBUBUシャトル。続いてBUBU501から505-C、LIME、BOYなど、50ccエンジンを使う「ゼロハンカー」を展開しました。日常の移動や遊びを、大手メーカーとは違う小さな車で提案した時期です。

1987年には1920年代のメルセデス・ベンツSSKをモチーフにしたBUBU CLASSIC SSK、1989年にはポルシェ356スピードスターを想起させるBUBU 356 SPEEDSTARを発表します。CLASSIC SSKは200台限定でした。これらは過去の名車そのものの復刻ではなく、その造形を現代に使える車として表現したレプリカ車です。小さな車を一から考える経験に、既存の機構と個性的な外観を組み合わせる経験が加わりました。
同じ1987年、米ロサンゼルスにMitsuoka Motors America Inc.を設立しました。ここでの主な事業は米国車の輸入販売です。海外に拠点を持ったことと、光岡車を米国で量販したことは同じ意味ではありません。輸入車を扱う商流と海外の車文化との接点が、事業の幅を広げました。
ラ・セードとビュートは、なぜ転機になったのか?
1990年のラ・セードは、日産シルビアを基に長いノーズとクラシックカー風の意匠を与えたモデルです。1991年にはドゥーラを発表。1980年代のレプリカ車で培った「憧れの形を現代の機構で楽しむ」という発想が、より幅広い乗用車の架装へつながります。

1993年のビュートは、その手法を日常で使いやすいコンパクトカーに移した代表作です。初代は日産マーチを基にし、丸形ヘッドランプや大きなグリル、独特の後部形状で、元の車とは異なる表情を作りました。名前は「美・遊・人」に由来します。量産車の基本設計を生かせば、独自の外観を持つ車をゼロから完成車開発するより小さな規模で届けられます。ビュートの登場で、この方式が光岡の継続的な商品群になりました。

ビュートは世代を重ね、2023年には4代目のビュート ストーリーが登場しました。基になる車はトヨタ ヤリスへ変わり、シリーズ初のハイブリッド車やハッチバックを設定。2026年の公式発表では、ビュートシリーズの累計販売は1万4000台以上とされています。初代の写真と混同しないよう、下の写真は2026年改良後のビュート ストーリーです。


ゼロワンの型式認証は何を意味したのか?
1994年に発表したゼロワンは、自社製シャシーを持つオープンスポーツカーです。ビュートのように既存車の外観を仕立て直す方式から踏み出し、車の骨格そのものを作りました。1996年4月、ゼロワンは当時の運輸省から型式認証を取得します。これによって光岡は、ホンダ以来32年ぶり、日本で10番目の国産乗用車メーカーとなりました。

「日本10番目」は創業順の順位ではなく、この型式認証によって乗用車メーカーとして認められたことを指します。車の安全基準や生産の一貫性を満たして市販できる体制を整えた点が、単に個性的な車を見せたこと以上の転機でした。1996年にはゼロワン クラシック タイプFも発表されています。
一方で、ゼロワンを出した後も架装車の開発は続きました。1996年のガリューは日産クルーを基にしたクラシック調セダン。同年には軽自動車を基にしたレイ、1998年にはリョーガも登場します。1998年のマイクロカーシリーズではキットカーも手がけました。自社シャシーの開発と、量産車を活用する架装の双方を並行していたのです。

2000年代にオロチは何を証明したのか?
2000年のユーガは日産キューブを基にした背の高い車で、ロンドンタクシーを思わせる外観を備えます。2003年には特販課を設け、リムジンや霊柩車などの製造・販売へ進出。2004年のヌエラはホンダ アコードを基にしたセダンです。クラシック調でも同じ形を繰り返すのでなく、ベース車や用途を広げていきました。
2001年、東京モーターショー初出展で披露したオロチのコンセプトカーは、大蛇を思わせる長く低い車体で注目を集めます。市販車の発表は2006年10月。企画から約5年を費やし、独自の車体を安全・環境基準に適合させました。オロチはゼロワン以来の型式認証車です。少量生産の会社が、ショー用の造形を実際に走らせ、販売できる車へ仕上げたことに意味があります。

オロチと並ぶもう一つの流れが、オープンカーのヒミコです。2008年に登場し、ラ・セードから続くクラシックスポーツの表現を、マツダ ロードスターを基に引き継ぎました。2018年には2代目へ移行し、2025年には最終生産モデル「Final Himiko」が発表されています。車種の世代を変えながらデザインの主題を継承する、ビュートとも通じる系譜です。
電気自動車と超小型モビリティにも挑んだのか?
光岡の電動化は近年突然始まったものではありません。1999年には1人乗り電気自動車MC-1T EVを発表。2002年には米国の大型トラックを小さくしたようなCONVOY 88も世に出しました。前者は短距離移動や配送といった使い方を想定した小型車でした。
2010年のライクは5人乗りの電気自動車。2011年のライクT3は2人乗りの3輪電気自動車で、最大100kgの荷物を積める業務用途を意識した車です。乗用のビュートやオロチとは異なり、「小さな車ならどのような移動を担えるか」を試した流れでした。電気自動車への挑戦を、現在の主力車がすべて電動車になったことと混同してはいけません。
2010年代のリューギとロックスターは何を引き継いだのか?
2014年に登場したリューギは、クラシック調のセダンに光岡初のハイブリッド車を設定しました。2016年にはリューギワゴンも追加。古典的な意匠を、燃費や実用性を求める時代の量産車と組み合わせたモデルです。下の写真は登場当時の仕様ではなく、後年のリューギ EXです。

2018年、創業50周年記念のロックスターを200台限定で発表します。マツダ ロードスターを基にした2人乗りのオープンカーですが、ヒミコとは別の、米国のスポーツカーを思わせる力強い表情を与えました。同じベース車の可能性を一つのデザインに固定せず、時代や狙う気分に応じて新しい形を提案した例です。
バディは光岡の商売をどう広げたのか?
2020年発表のバディは、光岡初のSUVです。トヨタ RAV4を基に、角形ヘッドランプと大きなグリルを持つアメリカンスタイルへ変えました。セダンやオープンカー中心の印象を超え、家族や荷物を乗せて使うSUVにも、光岡の個性を載せられることを示しました。

2021年の正式発売から約4年間で約1200台の受注を記録しました。ただし、ベース車の供給が不安定になると光岡側の生産にも影響します。2024年に確保分が完売した後、2025年にはRAV4の最終生産ロットから車両を調達できたため、ハイブリッド車150台の再生産を発表しました。人気だけで生産台数を増やせないことは、量産車を基盤にするビジネスの制約も物語っています。下の写真はこの2025年発表の再販モデルです。


M55は創業時代をどう現代へつないだのか?
創業55周年を迎えた2023年、光岡はM55 CONCEPTを公開しました。1968年の創業と同じ時代を生きてきた人々を主な対象に、1970年代の車の雰囲気を現代のホンダ シビックで表現した企画です。反響を受け、2024年に6速MT・100台限定のZero Editionを商品化しました。
2025年発表の1st EditionはCVTとハイブリッドを設定し、色やグレードの選択肢を拡大。2026年には6速MT専用のM55 RSも加わりました。最初の限定車から、異なる運転スタイルを選べるシリーズへ育てた流れです。写真は順に1st EditionとRSで、2023年のコンセプトカーではありません。


M55 CONCEPTの公開時の記事には、量産前に示されたデザインと企画の出発点が残っています。

3つの事業は、車づくりとどう結びついているのか?
光岡自動車の事業は、オリジナルカー、正規輸入車ディーラー、輸入中古車を扱うBUBUが主な柱です。1980年代からの米国車輸入、1990年代からの正規ディーラー、全国の販売・整備拠点は、珍しい車を作る会社という顔とは別の、企業を支える大きな仕事です。オリジナルカーは国内外で販売されていますが、1987年の米国法人設立は主に米国車を日本へ輸入するための動きでした。
2025年12月期の会社概要では、部門別売上比はオリジナルカー事業9.6%、正規輸入車ディーラー事業43.5%、BUBU中古車事業34.8%、その他12.1%。連結売上高は373億円です。注目される車づくりだけで売上の大半を占めているわけではありません。販売と整備の仕事が、少量生産のオリジナルカーを続ける企業の広い基盤になっています。
製造側でも、ゼロワンやオロチのような自社フレームの車と、ビュートやバディのような改造車では作り方が違います。改造車はベース車の主要機構を生かし、外板などを職人が一台ずつ仕上げます。さらに2003年に始めたリムジン・霊柩車などの特装分野では、2023年に寝台車の累計生産出荷が1000台を超えました。人の暮らしに合わせて車を作り替える技術は、乗用の個性派モデル以外にも使われています。
経営のバトンはどう引き継がれたのか?
創業者の光岡進氏から、2002年に光岡章夫氏へ社長が交代しました。2024年4月には大野貢氏が代表取締役社長に就任し、光岡章夫氏は会長、光岡進氏は取締役相談役となっています。馬小屋の鈑金工場から始まった会社は、創業者個人の挑戦を、複数の事業と次の経営陣が担う段階へ進みました。
社長交代を伝えた記事で掲げられた「100年企業」への歩みは、車のデザインを続けることだけでなく、製造、販売、整備の体制を次代に渡す課題でもあります。

光岡自動車の歴史をどう見るか?
光岡の歩みは、馬小屋での鈑金修理、中古車販売、BUBUの小型車、クラシックカーの造形、ビュートの架装、ゼロワンの型式認証へと段階を踏んでいます。オロチでは独自の車体を市販化し、その後も電動の小型車、SUV、M55と、作る車の種類を広げました。
一本の技術だけで成長した会社ではありません。既存の車をどう生かすか、自分たちでどこまで作るかを、その時々の企画に合わせて選んできました。これからの光岡車を見るときも、外観の好き嫌いに加え、ベース車、製造方法、販売と整備の仕組みに目を向けると、この会社の挑戦がより立体的に見えてきます。
よくある質問
光岡自動車はいつ創業しましたか?
1968年2月です。光岡進氏が富山市郊外で鈑金塗装修理を始めました。株式会社光岡自動車の設立は1979年11月です。
日本10番目の乗用車メーカーになったのはいつですか?
1996年4月です。自社製シャシーを持つゼロワンが型式認証を取得しました。ビュートなどの架装車を以前から作っていたことと、メーカーとしての型式認証取得は区別する必要があります。
光岡車はすべて他社製の車を改造したものですか?
いいえ。ビュートやバディなどの改造車に加え、ゼロワンやオロチのように自社でフレームから作った製造車もあります。
光岡は車の製造だけをしている会社ですか?
いいえ。オリジナルカー事業のほかに、正規輸入車ディーラー事業とBUBU中古車事業を展開しています。2025年12月期の部門別売上比では、オリジナルカー事業は9.6%です。



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